『自転車』を主題に日本画制作をする作家Blog
先月からBLOGを更新出来ず、間が開いても見に来てくれた方々。
本当にありがとうございます。
先月11月は厄月と言うべき月でした。
長い間繰り返し苦しめられた「疲労の風邪」
久しく忘れていた「時間に縛られた勤め」
それらが1ヶ月少々。
その間に、本当に「自由に時間を使って」絵を描くことの悦びを実感(思い起こす)期日になりました。
先月思い出す事は・・・
体調が悪くなれば、描きたいと望んでもイメージ(想像力)が全く出ない事。
期日が迫り、頭は「何か作らねば」と焦っても、本当に何も動かない、動けない。
また他に時間を取られれば、制作時間が殆ど出来ない。
深夜、明日の事を考えれば「調子が良くても」筆を置かなければ成らないこと。
(これがどれほど悔しいか(´Д⊂ヽ)
これらは作家として全く「生きている意味」が見出せない。
作る者として「生ける屍」とした言えない情況でした。
基本的に絵描きは「個人事業主」です。
体調が悪い
調子が乗らない
主題(方向性)が見つからない
等々
そんな事は世間では「自己責任」の一言で卓上から放置されます。
その中で「絶対にして対を成さない個」を生み出す。
結して世界中の誰も「私と同じ絵」を描くことを出来ないと強く想う。
ゆえに全てを想像し、形作る者であり続ける。
作る過程はさながら「世界地図を作り出す行程」
自分が皇帝や王、いや・・・神とも成れる時。
箱庭である画面の絶対的な創造神。
そう錯覚するは度々あります。
それが孤高にして至高の存在を意味する「作家」
そんな神であるべき至高の存在に至れないなら、作家は只の愚者。
また風邪で寝込んでいた時、久々に思い出した事が有ります。
ある作家が「私は忙しく土日しが制作が出来ない」
そんな中でも堂々と「私はこんなに頑張っている( `ω´*)キリッ」
※井上君は時間があるのに、その程度しか作画枚数が出来ないかとお叱りに。
その時の私が何を思ったか・・・
怒り?
はたまた反省??
少ない時間で作れる憧れですか????
私が想ったのは「・・・何とも不幸な人だな」・・・と。
(これは過去の自分を重ねて)
一週間の内、土日、しかも100%使える時間など僅かです。
「土日しか描ける時間がない」
その慌ただしい最中、
前より多くの取材をして
新たな作画のイメージを作り
適正の紙等々の材質を選定し
描きやすい下地を作り
下図(イメージ画)を作り
本画(画面)に興して色を配色し
最高の画面構成して
誰も見た事の無い作品を作る。
・・・成る程、この人の絵が変わり映えのない「何処かで見たような絵」なのは、その様な事か。
(結局惰性なんです=魅力が無い)
作り出すと言う行為をバカにするな(# ゚Д゚)
想像を絶する苦悩の中で「画面を作る」
その様な楽な「惰性」の中で出来る訳があり得るはずがない。
その行為は莫大な経験と多大な実験に裏付けられた「時間の無駄」の上に成り立つ。
結して一丁一石成り立つ物ではない
(一過性の物はあり得るかも知れないが)
常に新たな表現を模索すれば、自然と時間に比例します。
(逆に切迫した時間しか無ければ惰性の表現を繰り返す事しか出来ません)
※時間があれば良い絵が描ける訳では無い=その話はまた別に。
私の知人に、「前回(前の絵)と同じ事(技法)をしない」と言う方がいます。
正直、私に取っては当たり前の事ですが、この事(表現の挑戦)をしない作家のなんと多いことか・・・
連作ならいざ知らず、常に「次に何が(表現)出来るか?」
プラス+の表現、先のをする行為をしない。
(きっと挑戦する事を怖れているのでしょう( ´,_ゝ`)プッ)
売れる、売れないと目御前の小事にばかり目を向け、狭地で受け入れられる物しか作らない愚か者。
(正に負の連鎖です)
絶対的な自己主張。
その折れないエゴ、推し進めるエゴ、絶対的エゴイストのみが最終的に世界を遇する存在に成る。
何故此処に至ろうしないのか?
小物(敢えてこう言わせて頂く)の感覚は良く解りません。
私は今後10年は「ある程度の貧困」は覚悟しています。
ただ作家としての貧困(惰性の愚者)として生きていくつもりは無い。
体調を万全に、むしろ体調不良も作画に生かせるように出来るよう。
やはり体調&時間が優雅な方が作画も自転車も楽しいのですから。
_____________________________
本当にありがとうございます。
先月11月は厄月と言うべき月でした。
長い間繰り返し苦しめられた「疲労の風邪」
久しく忘れていた「時間に縛られた勤め」
それらが1ヶ月少々。
その間に、本当に「自由に時間を使って」絵を描くことの悦びを実感(思い起こす)期日になりました。
先月思い出す事は・・・
体調が悪くなれば、描きたいと望んでもイメージ(想像力)が全く出ない事。
期日が迫り、頭は「何か作らねば」と焦っても、本当に何も動かない、動けない。
また他に時間を取られれば、制作時間が殆ど出来ない。
深夜、明日の事を考えれば「調子が良くても」筆を置かなければ成らないこと。
(これがどれほど悔しいか(´Д⊂ヽ)
これらは作家として全く「生きている意味」が見出せない。
作る者として「生ける屍」とした言えない情況でした。
基本的に絵描きは「個人事業主」です。
体調が悪い
調子が乗らない
主題(方向性)が見つからない
等々
そんな事は世間では「自己責任」の一言で卓上から放置されます。
その中で「絶対にして対を成さない個」を生み出す。
結して世界中の誰も「私と同じ絵」を描くことを出来ないと強く想う。
ゆえに全てを想像し、形作る者であり続ける。
作る過程はさながら「世界地図を作り出す行程」
自分が皇帝や王、いや・・・神とも成れる時。
箱庭である画面の絶対的な創造神。
そう錯覚するは度々あります。
それが孤高にして至高の存在を意味する「作家」
そんな神であるべき至高の存在に至れないなら、作家は只の愚者。
また風邪で寝込んでいた時、久々に思い出した事が有ります。
ある作家が「私は忙しく土日しが制作が出来ない」
そんな中でも堂々と「私はこんなに頑張っている( `ω´*)キリッ」
※井上君は時間があるのに、その程度しか作画枚数が出来ないかとお叱りに。
その時の私が何を思ったか・・・
怒り?
はたまた反省??
少ない時間で作れる憧れですか????
私が想ったのは「・・・何とも不幸な人だな」・・・と。
(これは過去の自分を重ねて)
一週間の内、土日、しかも100%使える時間など僅かです。
「土日しか描ける時間がない」
その慌ただしい最中、
前より多くの取材をして
新たな作画のイメージを作り
適正の紙等々の材質を選定し
描きやすい下地を作り
下図(イメージ画)を作り
本画(画面)に興して色を配色し
最高の画面構成して
誰も見た事の無い作品を作る。
・・・成る程、この人の絵が変わり映えのない「何処かで見たような絵」なのは、その様な事か。
(結局惰性なんです=魅力が無い)
作り出すと言う行為をバカにするな(# ゚Д゚)
想像を絶する苦悩の中で「画面を作る」
その様な楽な「惰性」の中で出来る訳があり得るはずがない。
その行為は莫大な経験と多大な実験に裏付けられた「時間の無駄」の上に成り立つ。
結して一丁一石成り立つ物ではない
(一過性の物はあり得るかも知れないが)
常に新たな表現を模索すれば、自然と時間に比例します。
(逆に切迫した時間しか無ければ惰性の表現を繰り返す事しか出来ません)
※時間があれば良い絵が描ける訳では無い=その話はまた別に。
私の知人に、「前回(前の絵)と同じ事(技法)をしない」と言う方がいます。
正直、私に取っては当たり前の事ですが、この事(表現の挑戦)をしない作家のなんと多いことか・・・
連作ならいざ知らず、常に「次に何が(表現)出来るか?」
プラス+の表現、先のをする行為をしない。
(きっと挑戦する事を怖れているのでしょう( ´,_ゝ`)プッ)
売れる、売れないと目御前の小事にばかり目を向け、狭地で受け入れられる物しか作らない愚か者。
(正に負の連鎖です)
絶対的な自己主張。
その折れないエゴ、推し進めるエゴ、絶対的エゴイストのみが最終的に世界を遇する存在に成る。
何故此処に至ろうしないのか?
小物(敢えてこう言わせて頂く)の感覚は良く解りません。
私は今後10年は「ある程度の貧困」は覚悟しています。
ただ作家としての貧困(惰性の愚者)として生きていくつもりは無い。
体調を万全に、むしろ体調不良も作画に生かせるように出来るよう。
やはり体調&時間が優雅な方が作画も自転車も楽しいのですから。
_____________________________
この記事にコメントする